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男はじろじろと房一を見ていた。
「なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼していたんです」
と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
「鬼倉ちふのはきさまかと云ふんだよ。あんまり、この近所の者をいためてもらひますまい」
「はゝゝ、でもカワラケにはちがひない、それがかうひよつとね」
「鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか」
と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へていたのだらう。
房一は何もかも忘れていた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれていたが、それは却つて或る夢中な輝きを示していた。彼は何ものかに捕へられていた。何かが胸の奥深くでよびさまされているやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つている沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確しつかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。
「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
と、房一はひとり言を云つた。
体が、と云ふより声が引つこむと、代りにそこに姿を現したのは盛子だつた。すると、うす暗い台所の板敷の上に眩しいやうな、うすい葉洩れ日のやうな気配けはいが立つた。
と、房一を誘つていた。